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五十音格言

 マ行〜ワ行

「ま」じぜんかんを……

『本気(マジ)!』全巻を一気買いできるぐらいが正しい「本気」のテンション

 人はしばしば軽はずみに「本気で」等と口走ってしまうが、本気とはそんな軽い思いではあるまい。
 ところで『本気(マジ)!』といえば立原あゆみによる傑作極道漫画であり、その内容は全50巻におよび外伝や特別編も加えるとその数はゆうに60巻を超える。
 かの『DRAGON BALL』ですら全42巻であることを考えると軽はずみに全巻を揃えるのもためらわれる量であるが、だからこそこれをあまり内容も知らずに一気買いする心情にはある種の決意を感じずにはいられない。
 「本気」と口で言うのはたやすいが、軽い気持ちで「本気」という言葉を使ってはならない。せめて『本気(マジ)!』全巻を一気買いできる程度の覚悟を持ってから口にすべきであるという心構え。

「み」もーやくの……

モー役のちはるは現在インテリアデザインからカフェ経営まで幅広く活躍中

 20代以上の人間にはタレントのちはるさんといえば、1991年のヒット企画物シングル『マモー・ミモー野望のテーマ 〜情熱の嵐〜』で知られる怪人「ミモー」の奇抜なメイクのキャラクターの印象がいまだに強いという。
 しかしちはるさんは今やインテリアデザインからカフェ経営まで幅広くおしゃれに活躍中であり、ミモーの色眼鏡で見るのはもはや間違いであると言わざるをえない。
 人に歴史あり。自分がボーッとしている間にもちはるさんはこんなにがんばっていたのだ。人はまだちはるさんに見習うべきところが多いというおしえ。

 なお余談であるが『マモー・ミモー野望のテーマ 〜情熱の嵐〜』はかのFAIRCHILDでの活躍でも知られる名作曲家/音楽プロデューサーの戸田誠司氏の作曲であることもつけ加えておく。

「む」げいたいしょくという……

芸大食という言葉はいくらなんでもあんまり

 「ものはよく食べるが何ひとつとりえがない」ということを無芸大食という。ひどすぎはしないか。ひとつとしてほめている所がない。
 似たことばに「酒嚢飯袋(しゅのうはんたい)」というものもあるという。酒の袋と飯の袋、つまり酒ばかり飲み飯ばかり食い、あとは特になにもできない人のことである。もしもこんな事を面と向かって言われたら真剣に落ち込んでもしかたあるまい。

 たとえば「うどの大木」にはまだ光るなにかがある。うどはおいしく、薬にもなる。そこに救いが残されているが、「無芸大食」にはそんな気配がない。「酒嚢飯袋」にいたっては無芸大食の上にさらに負の属性をつけ加えている。あんまりである。

 人として無芸大食と言われないように気を付けたいといういましめのことば。また転じて、酒嚢飯袋と言われることは普通ないだろうが、だからこそ言われるとしたらよっぽどのことだというおしえ。

「め」りーくりすますと……

「メリークリスマス」と君は真顔で言えるか

 重要なのは真顔である。いったい真剣に「メリークリスマス」というべき場面が人生にどれだけあるというのだろう。
 ちょっとしたパーティーの席では真顔であってはならない。まして「メリークリスマス」と言う場面ならなおさらである。
 たとえば家庭でプレゼントを前にして、あるいはチキンの前で、それともおやすみの前に。どれも真顔は許されない。せめて微笑みはたたえなければならない場面である。
 恋人の前ではどうか。すてきなレストランですてきなワインで乾杯しながら、すてきな夜景が映るすてきな瞳をまっすぐに見ながら真顔で言う「メリークリスマス」。なるほどこれはありえる場面かもしれない。だが、恥ずかしげもなくそんなまねをするカップルは別れてしまった方がいい。

 「メリークリスマス」と口に出す時、決して真顔でいてはならない。それは場違いであるか失笑ものであるからだ、といういましめ。

「も」はやせんごでは……

はや1005ではない

 駄洒落である。たしかにもはや1005年では確実にない。

「や」っぴーということばは……

ッピーという言葉は結局定着しなかった

 ヤッピー (yuppie) とは80年代にアメリカで生まれた言葉で、ヒッピーの反対、都会に住み高級ファッションを着こなすエリート層を意味する。日本でもバブル期にややもてはやされた言葉であるが、しかしヒッピーと違ってヤッピーは日本ではいまだにまったく定着していない。

 ヤッピーという言葉の最大の問題は、言葉の意味を知らない人に聞かれたら恥ずかしいというところにあるのではないか。都会的な富裕層という意味で「ヤッピーはさあ……」と言っているのに、相手には「『ハッピー』と『やったー』の合成語? うわあ」と思われかねないという恐怖。そんな目で見られるなど屈辱である。その危険を冒したくないから人は決して「ヤッピー」と口にはしないのだ。
 ちなみにヤッピーほど有名ではないが、類語の「ヤンピー (yumpie)」や反対語の「パッピー (puppie)」という言葉もあるという。もはやとても口に出せる雰囲気ではない。

 ヤッピーという言葉は結局定着しなかった。ビジネスや学業で何かの必要が生じて「ヤッピー」という言葉を使う必要が出てきた時に、この事実をあらためてもう一度確認すべきである。そんないましめのことば。

「ゆ」かという……

「ゆか」という競技名はストレートすぎる

 床でおこなう運動だから「床」。漢字では「とこ」と読み間違えやすいので平仮名で「ゆか」と表記することが多く、また単なる床そのものと区別するために「ゆか運動」と表現することもあるが、それ以前に根本的に「床でおこなう運動だから『ゆか』」というそのストレートすぎる発想に問題がありはしないか。

 そもそも「ゆか」というおよそどこにでもある物を競技名にする時点で問題であろう。いまあなたの足下にあるそれも、おそらくゆかである。あん馬、つり輪、段違い平行棒、これらがいまあなたの目の前にある可能性は限りなく低いが、ゆかはおおむねどこにでもある。

 言葉を飾りすぎることは醜いが、だからといってあまり工夫をしないのも考えものであるというおしえ。

「よ」っちゃんからの……

「ヨッちゃん」からの卒業

 いまギタリスト野村義男氏を「ヨッちゃん」と呼ぶ人は少ない。田原俊彦・近藤真彦両氏が「トシちゃん」「マッチ」と呼ばれ続けることと対照的である。元たのきん出身でそれぞれの道を歩む三者だが、「ヨッちゃん」という愛称だけが消え行こうとしている。
 しかしあるいはこれは幸福な事でもあろう。男、不惑の四十歳を過ぎて「ヨッちゃん」でもあるまい。その意味では野村氏ひとりがたのきんからのイメージチェンジに成功したとも言える。ひとり勝ちである。

 転じて、同窓会などで旧友をあだ名で呼ぶのも考えものであるというおしえ。もう旧友もいい歳である。男、不惑の四十歳を過ぎて「まつポン」でもあるまい。

「ら」っぷのにほんご……

ップの日本語訳詞はしばしばキツい

 洋楽ヒップホップアーティストのCDにときどき訳詞が付いてくることがあるが、特にラップが認知され始めた時代の訳詞はおおむねキツい。原語でなければ通じないライムや適訳がないスラングを訳することにそもそも無理があるのだが、その無理を通そうとした結果、そこに単なる苦しい駄洒落や妙な言い回しが生まれる。もはやそれはただのダジャレばかり言う言葉づかいのおかしい人であって、断じてギャングスタではあるまい。

 原曲の良さを最大限に引き出そうとした結果生まれるのが、ダジャレばかり言う言葉づかいのおかしい人という皮肉。おそらくラップを訳する時には、ある程度ライムやスラングを無視する思いきりが必要なのであろう。すべてを望んで手に入れられるのはまちがいであるとする教訓。

「り」んきおうへんに……

機応変に寝る

 人はつねに白い布団で眠れるとは限らない。ときに電車で、ときに公園のベンチで。あるいはクラスで、そしてまた社内でも。
 いついかなる時も寝るときには寝るという覚悟をもち、そして寝るための伎倆をみがけという訓戒。
 転じて、なんだかんだ言っても家でぐっすり寝て他では寝ずにいるのがいちばんだという厳しい言葉。

「る」のじはみればみるほど……

「ル」の字は見れば見るほど「ノレ」に見える

 「る」が「のれ」に見える。こうして平仮名で書くとかなり異常な事態だとわかる。「る」が「のれ」に見えたら問題であろう。
 最初にカタカナの「ル」の字を考えた人は気が付かなかったのか。後世に重大な過失を残すとは思わなかったのだろうか。
 もちろん当時は縦書きが主流だから「ル」を横に「ノレ」とは読まなかったのかもしれない。しかし「ソ」と「ン」がまぎらわしい問題はどうか。あるいは「ツ」と「シ」。幼稚園児が引っかかるナンバーワンの問題である。角度や止め・はらいに気を付ければなんとかなるとはいえ、なぜわざわざそんなまぎらわしい文字にしたのか。
 「カ」が「ちから」に見える問題はどうか。「エ」は「こう」に見え、「タ」は「ゆう」に見える。「ロ」にいたっては「くち」である。「ろ」が「くち」に見えたら大問題であろう。

 カタカナはまぎらわしい。ことによると大人になってもいまだまぎらわしい。いい大人は「ろ」を「くち」と読まないよう気を付けねばならないという格言。

「れ」んげのはなの……

華の花のように生きよ

 格言っぽい響きだけで言ってみたものの、意味は特に決めていないことば。

「ろ」くぶんぎについて……

分儀についていくら説明されてもよくわからない

 六分儀とは中世から今も使われる鏡の反射を利用した計測器具で、緯度・経度や星の高さを調べることができ、主に航海や天体観測に使われる。これをモチーフにした六分儀座という星座もある。
 こう説明されても、六分儀が結局どんな道具なのかはわからない。

 しかし具体的に「対象を望遠鏡の視界にとらえた状態でハンドルを調整し水平線と対象の高さを合わせ、その時点での目盛と時間から測定する」と使い方を言われてもますますわからなくなるばかりである。形を見ても混乱するばかりだ。もう六分儀のことが何もわからない。

 ときとして人には決して越えられない壁があるというたとえ。

「わ」かぱいという……

カパイという呼び名に違和感を覚えよ

 グラビアアイドルの愛称はときとしてやりすぎである。
 細川ふみえ愛称フーミンの時代から、人は「なにかがおかしい」と思いながら、その違和感と闘ってきた。しかしその違和感がアイドルの価値を高めることが多いのも事実である。小倉優子がゆうこりんでなければ歴史は変わっていただろう。
 だからと言って慣れきってしまうのもまた問題となろう。何の躊躇もなく「あずあず」と口をついて出るようになったら、それは人として重要ななにかを失いかけているのだ。

 是非はともかくとして、ワカパイという呼び名には常に違和感を覚えなければならない。我々の常識はつねに危機にさらされているのだとする警句。

「ま」ずかいよりはじめよ……

「まず隗より始めよ」という言葉にしっくりこない

 ことわざの「まず隗より始めよ」とは、事を始めるときには言い出しっぺが最初にやるべし、という教えである。それにしては言葉の意味がわかりづらい。

 そもそも「隗」からして固有の人名である。広く世にあてはまることわざとして、いきなり個人名を出されてもぴんとくるまい。だいいちその隗自身、このエピソードでは別に言い出しっぺではないのである。言い出したのは燕の昭王であって隗は王にアドバイスした立場である。
 臣下に賢者を招きたいと考えた昭王にたいして、隗は「ならばまずは自分のようにたいしたことのない者を重用なさい」と答えた。その通りに隗を重んじたところ、その噂を聞いた各地の賢人がぞくぞくと集まったという。このストーリーから「まずは言い出しっぺがやれ」の意をくめというのか。

 もともと「まず隗より始めよ」は、「手近なことから手をつけよ」という教えだったという。それなら意味が通じる。ところが時がたつにつれ、意味が変じてしまったのが今のことわざであるという。
 この故事にちなみ、この五十音格言もたいがいわかりづらいが「まず隗より始めよ」みたいな例もあるんだしまあいいじゃない、といういいわけのことばが「『まず隗より始めよ』という言葉にしっくりこない」である。

「み」んなのなかに……

「みんな」の中に自分はいない

「みんなの頑張りで完成しました!」や「どうしたの? みんな心配してたんだよ」や「みんながそう言ってましたー」などの「みんな」の中に、おうおうにして自分は含まれていないものである。

 そんな後ろ向きすぎる考えをしめすことば。転じて、責任を自分以外に押し付けるやり方のたとえ。どっちにしても後ろ向きである。

「む」りょうたいすうの……

量大数のすごみ

 「無量大数」は数字の位(くらい)である。
 一、十、百、千、万……と続く単位は京(けい)を超えたあたりから一般的ではないが、京、垓(がい)と続き、そのうち那由他 (なゆた)、不可思議 (ふかしぎ)というとても数とは思えない語を経由して無量大数にいたる。使い方としては「1無量大数5兆8千億円」などである。

 「無量大数」という言葉の段階ですでに他を寄せつけないパワーがあるが、実は1無量大数が具体的にどのくらいの量なのかよくわかっていないという凄い事実がある。
 使われた時代によって解釈が大きく異なり、現代一般には10の68乗を1無量大数と考えるが、一説には10の88乗とも言われる。ずいぶんな違いである。ここに「物凄く大きい数ということで、あとはもうどうでもいい」というアバウトさを読み取ることができる。

 あまりにも巨大なものはそれだけで人を圧倒し、本質が忘れられる。大事にとらわれて小事を見失ってはならないとするおしえ。

「め」いきゅうははいって……

宮は入ってからが勝負

 俗に犯罪事件が解決しないまま終わってしまう状況を、迷い込んで出てこれなくなった状態にたとえて「迷宮入り」と称する。
 だがここで考えねばならないことは、一般に迷宮とは入ってからが本番であり、敵モンスターを倒し宝箱を開けイベントをこなし最終的に中ボスを倒すものと相場が決まっていることである。
 誤解ははなはだしいが、とにかくこのことにちなんだ、あきらめるにはまだ早いという意味のことば。

「も」びー・でぃっくというと……

ビー・ディックと言うと立派そうだが

 著名な文学小説『白鯨』に登場する巨大な鯨(くじら)「モビー・ディック」は、人間には支配も理解もできない巨大な力の象徴としてとらえられ、大自然や神のごとく人々を翻弄しときに無秩序な破壊をももたらす存在である。出版から五十年余が経った現在でもモビー・ディックの名は未知数で制御不能な力の比喩として使われる。
 ところでこのモビー・ディック(Moby Dick)の語をそれぞれ分解して訳すと、いずれも俗語で「moby」は「でっけえ」というような意味であり、「Dick」は「あんちくしょう」のような意味である。意訳するとモビー・ディックは「でかぶつ」程度の意味になってしまい、迫力と威厳に欠けるにもほどがある。

 日本語において横文字がもつ力を示し、また横文字へのだまされやすさをいましめるおしえ。

「や」みのなかの……

の中の闇鍋

 闇鍋。鍋料理の一種といえるが、エンターテイメント要素として部屋の明かりを消して、参加者おのおの用意した具材をひそかに入れ、「食べてみるまで分からない」という状態をつくるのが特徴である。
 有名なあそびであるが、ここでしばしば見落とされがちなのは、誰の目にも具材が見えないほど暗い状況で鍋をあつかうのはそもそも非常に危険だということである。
 火をかけたコンロ、あるいは煮えたぎった鍋。視界の閉ざされた状況で扱おうとしてはならないものの中でもトップクラスに位置する危険物といえよう。

 闇鍋の言葉に酔って眼前の危機をみすごしてはならない。闇鍋にも公平な進行役を用意するなどの工夫が必要であるように、危険を看過しないことのたとえ。

「ゆ」うやけは……

やけはタヤケにあらず

 「夕焼け」すなわち日没で空が赤く見える現象を、「夕やけ」と書くと非常に「たやけ」とまぎらわしい。
 おおむね表記するときは平仮名でひらかず「夕焼け」と書くのが一般的だが、しかしかつての人気番組『夕やけニャンニャン』も傑作漫画『夕やけ番長』も、「夕やけ」表記である。タヤケをおそれぬ気概がここにある。であるからこその人気であろうか。

 誤解をおそれぬ勇気をたたえることば。あるいは、そもそもタヤケってなんだという問題。

「よ」おとかほおとか……

Yo! とか Ho! とか言わなくなった

 一時は Say Yo! といえばヒップであり Say Ho! すなわちギャングスタであった。しかし昨今、Yo Ho といえばそれはカリブのあらくれ海賊たちの歌でありジョニー・デップのものである。よもやデップはヒップホップではあるまい。

 時流の移り変わりのたとえ。また「Yo Ho」で検索すると意外に天気予報や養蜂場がヒットすることから、思わぬ事態のたとえとしても使われる。

「ら」ぶあんどぴーすの……

ブ&ピースの意味は「愛と平和」

 ラブ&ピース、言葉のひびきはさわやかで軽くハッピーなバイブスを感じるが、しかしLove And Peaceを素直に日本語訳すれば「愛と平和」である。愛、そして平和。愛のために人は苦しみ、愛こそが人生を動かす。平和運動があり、平和会議がある。重々しく、いたずらに使うことのはばかられるひびきである。カタカナ語と漢字の間にはこれほどの大きく長い川がよこたわる。

 横文字のひびきにたやすく惑わされてはいけないという警句。

「り」んしょうのさいごは……

唱の最後はいつも寂しい

 小・中学校で多くの生徒が唱う「輪唱」は、複数のパートに分かれて時間をずらしながら同一の曲を歌う歌唱法である。
 有名な『かえるの合唱』では全パートが同時に歌い「げろげろげろげろぐわぐわぐわっ」「ぐわっぐわっぐわっ」「きこえてくるよ」「かえるのうたが」と壮大なコーラスを奏でる場面がクライマックスである。
 しかしオーディエンスの興奮が頂点に達したその直後から、各パートはみるみる終焉を迎えていく。もう「かえるのうたが」と歌いはじめる者はいない。いつしか歌う者が減っていき、最後には全体の1/4だけが寂しくラストパートを歌っている。もはや楽しかったあの頃は帰ってこない。

 どれほど栄華を誇ったものにも終わりは来るというおしえ。

「る」ーじゅのでんごんの……

ージュの伝言の後始末

 俗に男女の粋な別れ方として、女が男に悟られぬうちに別れの言葉を口紅で鏡などに書いて去っていく、というシチュエーションが挙げられる。
 いかにも絵になるシーンであるが、問題は残された男である。このルージュの伝言、はたしてどうやって始末べきか。別れのメッセージを己で丁寧に水拭きするのはいかにもみじめであろう。かといって放っておけば目にするたびにみじめがつのるばかりである。あるいは掃除のおばちゃんにこんなプライベートなメッセージを読まれるのか。いよいよそうはいくまい。

 実際はこのシチュエーションの原典であるユーミンこと荒井由実(当時)の名曲『ルージュの伝言』は、浮気された女が家を出て行くという歌である。歌詞は浮気な男を懲らしめるという内容を軽やかに歌っており、その意味でルージュの伝言は効果的きわまると言うべきであろう。

 浮気の怖さを示す言葉。また、後先を考えない行動をいましめるおしえ。

「れ」ごにのこる……

ゴに残る歯形

 レゴブロックといえば知らぬ者のないブロック玩具の王様である。バラエティ豊かな商品構成と、自在に組み合わせられる精緻なつくりに多くの少年少女が夢中になったことだろう。
 しかし工業製品の常として、時には「かみ合わせ」のきつい個体が混ざることもある。レゴブロックは時代によって様々なアップデートを行っているため、特に過去のものほどその傾向は強い。すなわち、自分の子供時代のレゴブロックには、ブロック同士が噛んだまま離れなくなってしまい、むりやりひきはがそうとした結果としての歯形が残っている可能性が高いということである。まして親がかつて子供時代に遊んだものとすればどうだろう。

 人に歴史ありというように、レゴブロックからも人の歴史をくみ取ることができる。レゴに残る歯形は成長の証でもあるのだ。
 人の成長の象徴としてのことば、あるいは成長してから見直すとなんだかきついもののたとえ。

「ろ」ーれんつは……

ーレンツは偉人

 物理学者ヘンドリック・アントン・ローレンツのもっとも有名な功績はローレンツ力(りょく)の発見であろう。それが何の意味かはよくわからなくても、だいたいそう言っておけばあっているものである。
 他にもGoogleで「ローレンツ」と検索すると関連検索に「ローレンツ力 ローレンツ変換 ローレンツ曲線 ローレンツ関数 ローレンツ収縮」とずらり並ぶ。ここで導かれるひとつの結論は、「ローレンツは偉人」ということである。そう言っておけばまず間違いはあるまい。

 ところで先ほどの関連検索の中には、実は物理学者ヘンドリック・アントン・ローレンツと関係ないものも混じっている。聞きかじりの知識で適当に言っていても、まあそれなりに何とかなるものだという不適切なおしえ。

「わ」おんのなかに……

「和音」の中に五十音がひそむ

 和音すなわちコードとは二つ以上の音を同時に鳴らしたときに合成される音であるが、そんなことはともかく「わおん」と発声すればそこに五十音の最後の文字「わをん」を見いだすことができる。もちろんかなりひどい部類のダジャレである。
 まさか最後の最後にダジャレでお茶を濁すとは誰が想像しただろうか。

 気を抜けば思わず口をつくことがあるだけに、ダジャレは危険である。ものごとの最後をだいなしにしかねない。うかつな行動をいましめることば。

「ま」んどりるの……

ンドリルのおもしろさ

 マンドリル。この動物にわれわれは深い憧憬をおぼえずにはいられない。
 それは言いすぎとして、マンドリルは反則である。ちょっと面白をとりにきている。人によっては生理的にあんまり……という声もあろうが、基本おもしろ主体である。
 あと、マントヒヒもわりと。

 神のいたずらのたとえと、それを言い出したらたいていのサルの仲間はなにかしら面白いんじゃないかという真理。

「み」っくすべじたぶるの……

ックスベジタブルの選民意識

 ミックスベジタブルといえば一般にニンジン・コーン・グリーンピースの3種を材料とした料理で、その材料の色をいかした赤・黄・緑の3色が美しいとされる定番野菜料理である。
 しかしその名前「ミックスベジタブル」と呼ぶにはあまりに3色、それも限られた3種類の野菜に内容が限定されすぎてはいないか。ポテトだって黄色いことではあながち負けていないのではないか。大根の白さはベジタブルの中でも美しいとは言えないだろうか。
 ベジタブルをミックスするだけならば、そこにはあらゆる野菜が入って許されるべきであろう。ここにニンジン・コーン・グリーンピースの選民意識がある。

 だからといってなんでも野菜をまぜこぜにした時の味はどうなるのか。
 自由と平等の意味を問いかける問題提起。

「む」がーるていこくに……

ガール帝国についてよく知るべき

 人はどれほどムガール帝国について知っているだろうか。専攻はインド史ですとか歴史は得意科目ですとか、あとインド人ですとかいう場合のことはこの際考えないことにする。
 300年以上の歴史を持ったこの帝国について、多くはその名前とだいたいの位置くらいしか知らないまま日々を過ごしている。人の生活がおおむねムガール帝国とあまり関係しないからこそではあるが、教養とはまさにこうしたことに目を向けることである。意外なほどしっかりしたことを言っている。

 教養を身につけよとのやや押しつけがましいおしえであり、またムガール帝国の「ムガー」の部分が単純に面白いというどうしようもない発見。近年では「ムガル帝国」とよぶことの方が多いことにも留意すべし。

「め」んつとかいて……

子と書いてめんこ

 日本の伝統玩具あそび「めんこ」は、漢字では「面子」と書く。
 だが、一般的に面子と書けばそれは「メンツ」であり世間体のこと、そして麻雀のプレイヤー転じてそろった人員のことを指す。

 そのルールの複雑さから主に大人の遊びとして知られる麻雀。かたや子供向けの遊びと考えられがちなめんこ。人は大人になるにつれて、面子めんこのことを忘れて面子めんつを重んじるようになるのである。
 子供の心を忘れないことのたとえ。

「も」あいは……

アイは謎めいている

 イースター島の巨石人像、モアイは多くの謎に包まれている。
 その建造目的すらはっきりとせず、神をまつる祭祀説が主流であるが決して決定的なものではない。起源や建造方法にも疑問があり、オカルトめいた超自然説のとなえられることも多々ある。

 問題はこれほどよくわからないものであるにも関わらず、モアイが平気でいろいろな意匠に使われていることである。なぜかストラップになっていたりする。地方のみやげ屋で何の関係もないのに置物になっていたりする。なんだったら渋谷駅の南口に建っていたりすらする。
 もしも万が一モアイの正体がふれた者に災厄をもたらす悪魔の像だったりしたら、どうする。あるいは安産祈願の神の像だったとしたらどうなる。いろいろとおかしなことになりはしないか。
 転じて、よく知らないままにみだりに扱うことのいましめ。

「や」ぶをつつかねば……

ぶをつつかねば虎児を得ず

 やぶ(草や雑木が生い茂るところ)をつつくと危険な蛇が出ることもあるので、みだりにやぶをつつくのは避けるべきである。そして、危険な虎穴に入らねば虎の子を得ることはできないので、目的のためならあえて危険をおかす価値もある。

 問題は、目的と行為の関係を間違えた場合である。虎の子を得ようとしてやぶをつつく。もはや危険しかない。こんなやつが何かを得られるものか。
 おろかものの考えのたとえ。

「ゆ」うきとむぼうの……

気と無謀の違い

 勇気と無謀は違う。君のそのおこないは、無謀であって勇気ではない。
 一度は使ってみたいかっこいいフレーズだが、しかし実際に行動を起こす前にそれが勇気か無謀か、はたして判断がつくものだろうか。

 「特に意味もなく飢えた野獣の群れに飛び込む」のはどう考えても無謀でしかないが、「けがを負った少年を救うため飢えた野獣の群れに飛び込む」とすれば、これは評価の分かれるところだろう。
 結果大失敗となればそれは無謀で済まされるが、大成功したときにはおおむね勇気あつかいとなる。もしも飛び込む前にしたり顔で「それは勇気ではなく無謀だ」と止めたとしたら、それこそ道化である。

 勇気か無謀か論は、結果しだいで大きく左右される。事が起きる前に勇気か無謀かと言っては失敗するおそれがある。そんな事なかれ主義をとくおしえ。

「よ」うかんいろは……

うかん色はそれじゃない

 「ようかん色」と言って、一般に人が思う色はそれぞれである。赤茶色か深い黒か、はたまた緑か。芋ようかんのイエローを、桜ようかんのピンクを思い出す人もいよう。
 しかし実は日本の伝統色で「羊羹(ようかん)色」というのは決まっており、黒や紫(の布の染料)が赤黒くあせた色をようかん色と呼ぶのが正しい。
 「ようかん色」と言っているのに、布の色あせた色が正解というのもおかしな話である。素直に「黒めのあずき餡の色」ではだめなのか。それはもはや「ようかん色」ではなく「黒布赤あせ色」ではないのか。

 ようかん色はあなたがその名から想像した色ではない。ものごとの意外性のたとえ。

「ら」いおんは……

イオンは獅子を狩る時もレオを百獣の王にキングオブキングス

 なんだかよくわからないが、群れの中でのボス争いは熾烈なようだ。

 サバンナの過酷さと、群れを追放されたとはいえ腐っても百獣の王という矜持をあらわすことば。または、同義語を並べればいいというものではないという教訓。

「り」きしたい……

士vsおすもうさん

 相撲をとることを職業にしている人を、「力士」とよぶ。一方で、「おすもうさん」ともよぶ。この差はなんだろう。
 力士とおすもうさんが闘った時、勝つのはどちらか。力士であろう。力の士(おとこ)、Power Man それが力士である。おすもうさんにできることは、ほのぼのムードに引きこんで勝負なし引き分けを狙うことしかあるまい。

 言い方ひとつで何もかもが変わって見えることのたとえ。

「る」つぼを……

つぼを見たことがない

 よく「興奮のるつぼ」「人種のるつぼ」などと言う。さまざまなものが混ぜ合わさる様子をさしてこうよぶが、ところで「るつぼ」のなんたるかを我々は本当にわかって言っているのだろうか。

 物質、主として金属を溶かす、または熱するための深皿を称してるつぼという。耐火性・耐熱性である。多くは磁器で作られるが、工業分野ではより安定性の高いアルミナ製のるつぼが新スタンダードとなりつつある。漢字で書けば「坩堝」である。実は「坩」と書いても「るつぼ」であるし「堝」と書いても「るつぼ」である。だからといって「坩堝」と書いて「るつぼるつぼ」にはならず「るつぼ」である。るつぼの世界は奥が深い。

 決まり文句になった言葉からは元の意味が薄れ忘れられるという、意外にシリアスなおしえ。それにしてもるつぼを見たことがない。

「れ」んじゃーの……

ンジャーのすごさ

 レンジャーという言葉は様々な場面でつかわれる。
 たとえば米国で単にレンジャーといえばそれは森林警備人のことであるし、日本の人命救助の場ではレンジャーといえば山岳救助に特化した機動隊部隊のことである。軍隊ではゲリラ戦に適した特殊部隊でありテキサスでは騎馬警官でありRPGではおおむね森林地帯や狩りに強いジョブである。

 例をあげればあげるほど、レンジャーのことがよくわからない。今までの例からなんとなく共通するものがわからないでもないが、それをひとことで言うすべがない。ただひとつはっきりしていることは、レンジャーはすごいということである。どの例をとっても、明らかにただものではない。
 レンジャーを敵にまわすべきではない。それが何のことかよくわからなくても、レンジャーはすごいのである。形容しがたい力をもつ相手をさすたとえ。

「ろ」っくかどうかで……

ックかどうかで全てを決める

 キープ・オン・ロックンロール。それは音楽に限らず、生き方の問題でもある。人生はロックだと、ときに人はいう。
 たしかにロックな生き様はしばしば人の心をひきつける。あるいはそこまで広いレベルでなくとも、人生の至るところにロックか否かの選択肢はある。軽自動車に乗るかバイクに乗るか。間違いなく後者がロックである。落とした100円玉をあわてて拾うかそれとも気にせず先に進むか。お茶漬けでサラサラッと締めるかスコッチを浴びるように飲むか。後者こそがロックであろう。

 しかしロックかどうかで全てを決めるとなると考えものである。散財するかどうかの場面で散財するのがロックであり、暴力をふるうか否かの場面でふるうのがロックである。転がる石のように生きると、だいたいにおいて痛い目をみる。それはごく一部のロックな人にだけ許されることであって、あなたは決してシド・ヴィシャスでも内田裕也でもないのだ。
 無謀なおこないのたとえ、またそれをいましめるおしえ。

「わ」ーおと……

ーオ!と言うとき

もうすぐアレらしいぞ!

 ワーオ!とわれわれはふだん果たして口にするだろうか。英語圏ならばあるいは。しかしここが日本であれば、どうか?
 洒落者であれば、それもありえるのか。それともおどけ者であれば。だが彼らにしても、とつぜん目前に巨大なロードローラーがせまってきたとしたらどうだろう。はたしてワーオ!と叫べるか。そんな余裕はあるまい。声にならない悲鳴か絶叫がせいぜいであろう。

 人がワーオ!と言うときはめったにない。ワーオ!と言うやからには何かがある。注意を払うべしという教訓。

「ん」……

? 最終回なの?

 最終回。それは突然やってくる。彼らの戦いは始まったばかりであり、次回作にご期待すべきなのである。第一部完であり、おおむね第二部はないのである。
 最終回はそれを受け止めるものによってときに悲劇となりときには喜びとなるものだ。そして、人によっては別にどうでもよいものともなる。「ん? 最終回なの?」

 最終回だと盛り上げるのもいいが、それも大多数の人間にとっては何の影響もないものである。なにもこんなときに言わなくてもいいようないましめ。