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「な」とぅをみもせずに……

『ナトゥ』を観もせずに悪く言うなかれ

 ある意味で語り草かもしれないが、しかし本当に『ナトゥ』を見た上で言っているのだろうか。企画物だとか日本人なのにマサラムービーとか上映形態がみるみる変わっていったとかワゴンセールで時々見るとか、そんな表層ばかりに目が行ってはいないか。見るべき本質は映画の中にこそあるはずだ。

 という常識論はともかくとして、現実問題いまや「ナトゥ」といえばむしろ藤岡弘探検隊の「野人ナトゥー」の方かもしれない。という諸行無常と強引にからめたことば。

「に」んげんごじゅうねん……

間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり

 盗作である。

「ぬ」りえがうまくなる……

りえが上手くなる頃にはぬりえを卒業している

 子供はえてしてぬりえを乱暴に塗ってしまいがちである。すぐにはみ出すし、ぬり潰し方もひどく適当である。見当違いな色で塗ってしまったりすらする。
 成長するにしたがい、人は正しくきれいにぬりえを塗れるようになっていく。だが、その頃にはぬりえで遊ぶ歳ではなくなっているのだ。ここにぬりえの不幸がある。

 これらのことから、近年の高齢者向けぬりえの流行はこうした報われないぬりえのリベンジなのだ、とする陰謀論めいたことば。

「ね」こずきにも……

好きにも悪い人はやっぱりいる

 俗に「猫好きに悪い人はいない」などと言われるが、よく考えてみれば『007』シリーズ初期の悪役プロフェルドをはじめとして、猫を膝に抱いた姿がトレードマークの悪人はうなるほどいることに気付く。猫を膝に抱いているからといって善人であるという幻想を抱いてはならない。猫好きにも悪人は多いのだ。

 このように現実と虚構をごっちゃにするのはともかくとして、猫好きの悪人もやっぱりいるのだろうという当たり前のことを説くことば。

「の」うめんは……

面は人を怖がらせる目的で作られている

 能面は怖い。日本の誇るべき伝統文化とかそういう事を抜きにして単純に怖い。あそこまで怖い顔をしている理由が見つからない。しかし、怖い事それ自体が目的と考えるなら説明がつく。

 すなわち能面は人を怖がらせる目的で作られているのだ、と決めつけることば。無論いいがかりである。

「は」んどるねーむに……

ンドルネームに凝ると後で後悔する。しかし凝らなくても後悔する

 ハンドルネーム、あるいはHN。ネット上で使われるニックネームで、その人物の重要な識別手段である。重要である以上つい凝ってしまいたくなる気持ちはわかるが、しかし日常生活で使う事のないようなかっこいい漢字やいかした英語をハンドルに使うのもどうか。ふと冷静になった時、あるいは数年がすぎて大人の分別がついた時、はたまた通りすがりの誰かに冷静に指摘された時、いやおうなく気付かされるのだ。「この名前は恥ずかしい」

 だからといって、安易に普段友人間で交わされるあだなを使ってしまったり、いっそ本名だったりするのも後々面倒ごとの種になろう。他人の目から見ればあまりにも素なフレンドリーさにかえって近づきがたいものがあるし、個人情報保護の観点からもおすすめできない。

 もう何の作為もなく、ただ見回して目に入った文字を適当にハンドルにするというのはどうだ。「キシリトールガム」そんなハンドルネームの人間に何かを相談する気になるものか。

 ハンドルネームは魔物である。あなたがどれだけ知恵をしぼろうとも、あるいはしぼらなくとも、結局あなたのハンドルネームは失敗している。そんなネガティブ思考なおしえ。

「ひ」っさつわざは……

殺技は男のたしなみ

 暴論である。それはそれとして話を進めれば、過去にテレビや漫画で見た内容をもとに考えれば、実に「できる男」の大半は必殺技を身に付けているという興味深いデータが導き出される。このことから必殺技は男のたしなみであると言える。そんな暴論。

「ふ」ばいうんどうは……

買運動は抜けた者勝ち

 不買運動。そこには確固とした不断の決意が感じられるが、途中で決意を曲げてしまう許されざる変節漢が多いのも悲しいかな事実である。あれほど××社の××は買わないと強く誓ったにもかかわらず、便利さや食欲などに負けて買ってしまう。これもまた人の性であろうか。
 ともあれ、不買運動はある程度の時を経て、企業が折れるかあるいは運動そのものが立ち消えるか、何らかの結果が出るだろう。その時、長きにわたって不買運動を続けてきた者は達成感を得たかはたまた挫折を味わったか、それにしても彼が思うのは途中であっさり不買運動を抜けた変節漢のことである。軽蔑の気持ちはある。しかしそれ以上に、なんだか負けたような気持ちが去来する。これだけがんばった自分の横で、あいつは気軽に××を買っていた。自分は間違っていないはずなのに、なんだか負けた気がする。

 不買運動に勝者がいるとするなら、それは抜けた者である。そんな人の世の不条理をいたずらに説くことば。

「へ」゛ーしすとは……

ーシストは無口ないい奴

 「バンドやろうぜ!」と誰かが言った時、ボーカルは陽気で活動的であり、ギターは攻撃的な天才肌であり、ドラムは体格が良く時にリーダーシップを発揮し、そしてベースは無口ないい奴である。むろん偏見である。
 あるいは陽気でもないし活動的でもないボーカルも世の中には大勢いよう。しかし陽気で活動的なベーシストとなるとどうだろう。もちろん偏見だが、しかし攻撃的な天才肌のベーシストの姿に違和感をおぼえはしまいか。バンド一体格が良く時にリーダーシップを発揮して仲間をまとめるベーシストの姿がイメージできるだろうか。断固として偏見だが。

 そんなバンドブームの頃のパブリックイメージによる根強い偏見を声高に語り、不必要にビクビクしてみるためのことば。

「ほ」がらかというその……

「朗らか」というその字づらがすでにほがらかではない

 「朗らか」という字は読みづらい。めったに使わない字な上に、音読みで「ロウ」と読むイメージの方が強く「ほがらか」という読みが出てくるまでにワンクッションある。「朗らか」という字を読もうとした時に感じる一瞬の躊躇。ロウ…らか?……いや、ほがらかか……あれ、ほがらかでいいんだっけ? こんなとまどいばかりの思考はすでに「ほがらか」からかけ離れている。もはや「朗らか」はほがらかではない。

 そんな漢字コンプレックスを前面に押し出した格言。

「な」げきのぼいんを……

『嘆きのボイン』を歌うのはしばしばセクハラ

嘆きのボイン』は1970年に日本全国で爆発的なヒットとなった傑作コミックソングである。月亭可朝によるブルージーなサウンドは単に明るいだけのコミックソングと一線を画し、『とん平のヘイ・ユウ・ブルース』など後年の名曲に与えた影響も無視できるものではない。
 それはそれとして、そうは言ってもまだ知り合って日も浅いカラオケの席、ある程度以上の共通認識ができていないような場で『嘆きのボイン』を歌うのはおおざっぱに言ってセクハラ行為であり、厳に控えねばならない。

 いかな名曲であろうとTPOを考え「CLEAN」と「EXPLICIT」の線引きもときには必要となる、というおしえ。

「に」ほんがもし……

本がもし100人の村だったら1人は佐藤さんです

 統計によれば、佐藤姓は日本の総世帯数のうち1%を占めるという。1%と言うとそれほどの数でないようにも思えるが、「日本がもし100人の村だったら」式に考えれば実に村に1人は佐藤さんがいることになる。
 ところで、ここで考えねばならないのは100人の村に1人佐藤さんがいたところで、その発言力は実は他の村人と同格ということである。やはりたいしたことのない数なのかと思ったところで、では他の村人は何者かという疑問がわく。統計によれば0.6人は田中さんであり、0.5人は伊藤さんである。どんな状況なのかがわからない。こんな不気味な村にいる佐藤さんは引っ越しを考えた方がよい。

 「もし100人の村だったら」式のたとえはわかりやすい反面、分布が散らばりすぎている場合かえって事態を混乱させるという、意外に正論なおしえ。

「ぬ」かにくぎを……

かにくぎを打つな

 ことわざの「糠に釘(ぬかにくぎ)」とは、手ごたえのないことのたとえで、意見しても効果がないことなどを指す。

 ところで、そもそもぬかに釘を打つことが問題ではないか。何を考えてそんなことをしたのか、と責められてもしかたあるまい。
 同義語の「豆腐にかすがい」もそうである。何を考えて豆腐にかすがいをかけるのか。英語では「plowing the sands(砂を耕す)」という。何を考えて砂を耕すのか。やる前になにかがおかしいと気付くべきではないのか。
 人として理性あるおこないを心がけるべしといういましめ。または、へりくつ。

「ね」ばーらんどを……

バーランドをネバーネバーランドと言う

 『ピーターパン』の舞台としても有名なネバーランドは「ないない島」と訳されることもある通り、原語でも厳密には「ネバーネバーランド」である。どこか粘着質な発音になってしまう。Never-Never Landをより英語らしく発音しようとすれば、いよいよそれはネバネバランドに近くなる。
 たとえそれが正しい発音であろうと、ネバーランドをネバネバランドと呼んではならない。それは夢を壊す行為であるからである。事実が人を救うとは限らないというおしえ。

「の」ーさいどの……

ーサイドのうまいこと言った感

 ラグビー では試合終了を「ノーサイド」と呼ぶが、これは敵として戦った2チームでも試合を終えればどちら側(サイド)でもない大事な仲間である、という意味をもつ。
 非常に健全なスポーツ精神にもとづく考え方であり、審判が「ノーサイド!」とコールするその言葉は美しいが、それだけに一言でうまいことを言いきった感はぬぐいきれない。複雑な概念をきれいに一語でまとめてしまうと、そこには一抹のうまいこと言った感がつきまとってしまう。

 

「うまいこと」は危険である。どんないい事を言っても、うまいこと言うねえのひとことで済ませられてしまう。ノーサイドの故事にならい、うまいことの恐ろしさを説くいましめ。

「は」いふぁいの……

Hi-Fiの心意気

 誤解されることもあるが、オーディオ用語のHi-Fi(ハイファイ)とは特定の規格ではなくHigh Fidelity(高忠実性)の略で、原音・元画質に近づけたという曖昧な意味である。すなわち高音質/高画質な製品であれば、特に審査などを経ずしてHi-Fiをうたうことができる。
 Hi-Fiとは規格ではなく、心意気である。これは高音質だと胸を張るとき、人はそれをHi-Fiと呼ぶのだ。転じて、心に(Hi-Fiの)誇りをもてとするおしえ。

「ひ」れつかんは……

劣漢は言葉の響きがかっこいい

 「いやしくおとったおとこ」と書いて卑劣漢。人としてあってはならない姿である。
 しかるに、意味をさておいて見たときどうか。卑劣漢。漢字は単純な中にもシャープなバランスがあり、ヒレツカンの響きはクールなものがある。
 だまされてはならない。卑劣漢とは本来いやしくおとったおとこである。ここに卑劣漢の最大の卑劣さがある。
 あるいは人を見た目で判断してしまうこととも通じよう。印象で判断することの危険さを説くことば。

「ふ」ちび

知火ふちび

 わからない漢字があればきちんと調べようという教訓。

「へ」んしんしたあとの……

身した後のケアが大切

 変身ヒーローは文句無しにかっこいいものであるが、しかしそれを言うならかっこわるいはずの敵の怪人も変身した姿である。
 かの仮面ライダーももとをただせば敵組織につくられた怪人であり、そこに違いはない。ヒーローと怪人を分けるのは変身することではなく、変身した後になにを成したかであろう。
 目につきやすい派手なおこないよりも、日ごろの善行こそが大切であるとする、言葉のわりにまっとうなおしえ。

「ほ」うそうじこの……

送事故のワクワク感

 テレビを特に責任なく見る視聴者にとって、放送事故はしばしばワクワクする瞬間である。
 小は現場のレポーターのマイクがつながらないことに始まり、大は「しばらくお待ちください」まで、日常の中の突然の刺激は見るものの興味をひきつける。
 しかし放送事故の現場ではどうだろうか。そこには焦燥があり、怒号がとびかい、最終的に始末書などもとびかいかねまい。減らさねばならないはずのミスが、もっとも視聴者をひきつけるという矛盾がここにある。

 この矛盾を解決するには、テレビマンは常に放送事故よりも面白い番組を作り続けねばならない。最大の敵をつねに意識し、そなえなければならないとする心がまえ。

「な」んときれいな……

んときれいな7109017平城京

 勉学の友としての語呂合わせは便利であるが、しばしばこのように本来の意図を逸脱してよけいな語呂まで合ってしまう。
 語呂合わせを語呂合わせたらしめるのは文脈である。まさか西暦700万年に平城京遷都が行なわれるはずもない。水兵リーベ僕の船だからといって元素周期が硫黄(S)とウラン(U)とヨウ素(I)で始まるわけではないのである。

 前後の文脈を読み的確に意図を把握することの大切さを教える教訓。ちなみに「ななひゃくじゅうまんきゅうせんじゅうななへいじょうきょう」と発音する。

「に」えゆはかなり……

え湯はかなり熱い

 「煮え湯を飲まされる」とことわざにはあるが、煮え湯すなわち沸騰する煮えたぎった熱湯であり、約100度近いと考えてさしつかえない。これを飲まされるとすれば、もはや生死にかかわるピンチである。

 煮え湯を飲まされる立場になってはいけないし、良い子は煮え湯を飲ませてもいけない。そんな道徳的なおしえ。

「ぬ」えの……

えの欲張り感

 「ぬえ(鵺)」とは平家物語にも登場する想像上の怪物である。この「ぬえ」の姿であるが伝えられるところによれば「体はタヌキ、手足は虎、尾は蛇、声はトラツグミ」だという。なんだかよくわからない。すでによくわからないことが「ぬえ」の特徴のひとつでさえあるという。

 有名な妖怪、猫又などは「尾が2つにわかれたネコ」である。有名な怪人、バイオレンスジャックでさえ「筋肉はゴリラ、牙は狼、燃える瞳は原始の炎」ていどであった。それに比べてぬえのピンとこないことときたらどうだろう。

 あちこちに手をつけて収集がつかなくなることのたとえ。

「ね」じをかんじで……

ジを漢字で書いてみる

 ネジとはすなわちスクリューである。このネジの漢字表記はいくつかあるが、たとえば「螺子」であり「捻子」であり、また「捩子」でありはては「螺旋」であったりする。
 巻き貝のニシ(螺)のような姿だから螺子。あるいはねじる(捻る / 捩る)から捻子 / 捩子。螺のようにぐるぐるめぐるから螺旋。意味を聞けばたしかにそうかもしれないが、そもそもニシ貝を「螺」と書くことがまず難しい。ついでにニシ貝の形も意外とイメージしづらい。それを言えば「ねじる」を漢字で書くのだってそもそも難しい。

 話の筋が通っていようとも、人にはできることとできないことがある。限界を示すことば。

「の」しいかの……

しいかの暴走族感

 味付きするめを薄く伸ばせば「のしいか」であるが、これを漢字で書くと「熨斗烏賊」である。とたんに食品らしさがうせる。
 いくら語源がのし袋でおなじみ薄い熨斗(のし)だとか賊のような烏(からす)がついばむから烏賊と書いてイカだとか言おうと、そこにあるのは暴走族感である。あるいは、戦国の世の大陸で項羽とか曹操とかに討伐されてそうな雰囲気である。

 何でも漢字にすればいいというものではない。日本文化たるひらがなの大切さをおしえることば。

「は」いきんぐと……

イキングとバイキングは意外と間違えづらい

 1文字ちがいどころか濁点のあるなしのみという小さな違いにもかかわらず、バイキングに水筒とリュックサックでやってくる者はファミリーむけ4コマの中にしかいない。
 濁点のもつ圧倒的な存在感を示す例であるが、油断してはならない。いつちょいエロダジャレの「イキング」とバイキングがごっちゃになるか、それはその瞬間までわからないのである。

 濁点のだいじさと、どうしようもないダジャレの恐ろしさを説くことば。

「ひ」ゃくりのみちは……

里の道は0.1歩から

 「千里の道も一歩から」とことわざにもある通り、なにごともできることからこつこつやるのが大事である。
 ところで、千里の道も一歩からだとすれば、その十分の一の距離である百里はやはり一歩の十分の一、すなわち0.1歩から始めるのが大事といえはしないか。さらに言えば一里(約3.9km)は0.001歩から始めることになる。人間のあゆみ1歩を千分の一に分解して0.001歩、これはだいたい「きき足に体重をかけようかと思ったあたり」と言い換えることもできよう。
 「1里」という単位はもともと「300歩」を意味するが、一里の道はきき足に体重をかけようかと思うことから始まるのである。ほとんど何もしていない。

 簡単な道のりほどたやすいと油断して実行に移さずほうっておいてしまうという、へりくつから始まったわりにちゃんとした警句。

「ふ」らんだーすのいぬの……

『フランダースの犬』の最終話しか知らない

 名作テレビアニメ『フランダースの犬』の最終話ラストシーンは、その悲劇性と高度な演出によって初回放送から30年余がたったいまでも広く知られる。しかし、そのシーンだけがあまりにも有名なために、そこ以外は知らないというかたよった知識をもつ者も多い。
 多くの人々はパトラッシュをだしにネロが金物屋から金をまきあげられるシーンを知らない。上杉和也がきれいな顔をしているシーンや、アムロが親父にもぶたれたことがないシーン以外は知らないのである。

 半可通のおろかさを示したことば。転じて、知らなくてもあらかたなんとかなる状態のたとえ。

「へ」ちゃむくれって……

ちゃむくれって、なんだ

 「へちゃむくれ」は一般に顔の見た目をあしざまに言う言葉だが、具体的にどう悪いというのか、人は意外にそれを知らない。
 へちゃがむくれているのか。むくれはまだしも、へちゃってなんだ。
 「へしむくれ」とも言うことから、一説にはへし口(への字口)をさすともいうが、あくまで一説である。ほかにも「へちむくれ」と言ったり「へちゃもくれ」と言ったりもする。なんだ、へちゃもくれって。もはや状況が想像できない。

 わかったようで何もわからない状態のたとえ。

「ほ」んとうにあったはなしが……

当にあった話が多すぎる

 本当にあった愉快な話。あるいは本当にあった笑える話。はたまた本当にあった怖い話。本当にあったHな話から本当にあった泣ける話まで、本当にあった話のバリエーションは多すぎる
 めったにないから話になるとはいえ、今日も世界のどこかでまた新しい本当にあったなにかの話が生まれているのだ。

 本当にあった話は多すぎる。付け加えるなら本当は怖い話も多すぎる。
 「本当」という言葉のもつ魔力をさすことば。